建築士事務所-計画工房 辿のつぶやきと家づくりサポート

待庵訪問記

   注(待庵=利休が秀吉のために建立した現存する唯一の小間の茶室、非公開の国宝)

94年3月4日、約束の時間より小一時間早くサントリーの故郷、山崎の地に降り立つ。もとい、山崎は桃山の昔より私を待っていた待庵の地である。待庵のある妙喜庵は人里はなれた竹林にひそとたたずんでいるノ筈であった。事前に送られた地図によればJR山崎駅からかなり近い。しかし駅前のありふれた田舎の風景からそれらしい木立は見当たらなかった。駅前の妙喜庵方向に歴史街道と書かれたノボリが何本か並んでいるのが目につくぐらいである。そこには駅前広場から数段の階段を上がって少し大きめな民家風の古い建物があり、拝観拒絶の立て札が立っている。信じたくはなかったがそれが妙喜庵であった。

だめで元々と出した見学願いが意外にも快諾を得て、いそいそとやってきた憧れの妙喜庵、待庵のロケーションに対する私のイメージはこうしていきなり崩れさったのである。幸いまだ時間はあった。気を取り直すためにも私達は地図にある遠回りのアプローチを辿ってみたが、結果は広場の階段の上に戻ってきただけであった。現実は変えられるものではない。ならば気分だけでも変えなくては気が済まないのも事実である。私達だけではもったいないとお誘いした川崎さんのためにも遠回りのアプローチから尋ねることにして待ち合わせの駅に戻った。川崎さんはすでに着いていて、「あれがそうらしいわね」とこともなげに言う。女性は現実に強いのかも知れない。いや彼女も同行した私のカミさんも待庵の価値がアプローチやロケーションに左右されるものではないことを既に承知していたのである。

それでも遠回りした我々は定刻に妙喜庵の庵主を尋ねた。玄関をあけると意外にも、いや当初のイメージ通り、しっとりとした本物のたたずまいの中で庵主夫人が迎えてくれた。深草の洗い出しに埋め込まれた二枚の瓦の敷物の模様が擦り減っている。寄り付奥には見事な立華。仕事着姿の温厚そうな夫人。私の不安はこの時点で雲散霧消していた。上がって挨拶を済ませると、次の間にはこれまた見事な桜の生華が活けられている。夫人の手によるものだろう。続いて通された仏間、ここからは庭とその左手にあの待庵が見える。京の郊外とはいえ生垣一つで駅前に面しているのにまるで結界が張られているかのような別世界である。庵主の生活がここにあるせいか時の流れに荒れた気配がどこにもない。さっそく夫人に先導されて待庵に向かう。

仏間の縁から続く延段の上、一重の柿葺の軒は意外に高い。しかし躙り口の開かれる土庇は深くて低い。これがうまいこと前庭の狭さをカバーしている。残念なのは下の躙に至る飛び石の三和土が痛みが激しいとのことで簀の子で覆われていたことだ。中村先生の計らいとのことである。待庵は、入室、撮影、採寸が厳しく禁じられている。夫人は余計な説明はしないが質問には丁寧に答えてくれる。ここで中を窺い、力骨の補修あとの話から中村昌生先生の話など夫人との雑談の中で、その筋の肩書きのない我々は幸運にも夫人の炯眼に適い、特別な計らいを受けることになった。まさに待庵は私達を待っていたのである。

二畳隅炉と室床、一畳板畳付きの次の間からなる極限の狭さと言われる小間は、秀吉のようにあぐらをかいても不思議に広い。京間というだけでなく、絶妙な天井の低さと塗回しの床、絞り込まれた光の加減から感じるものであろう。早春の昼下がりに、ときおり陽光が覗く庭先から小舞と竹格子の障子を通して淡い光の漣が揺れる。遠回りの径脇の土と同じ色の中塗の土壁は四百年の間にーおそらくはその後半にー訪れた人々によってすべてのスサを毟り取られ、あばた模様を呈していたが、それすら美しい自然の風化を思わせる。低い室床にはその壁の暗さから透き抜けるような空間が広がる。そして目に見えない見事な補修の数々。四百年の時を隔て、ここには利休と秀吉が対峙しているのである。

それこそちょっとした隙でもあったなら、採寸魔の川崎さんはメジャーを出したかもしれない。対して覗き魔?の私はダミーのカメラと三脚を仏間に残し、超高感度のフィルムを仕込んだ小型カメラを懐に忍ばせて華麗なる隠し撮りを狙っていた。若かりし頃、中村先生のお供で来たことのあるカミさんは必死に夫人との話を紡ぎ、その隙を作ろうとしていた。私はカメラのレンズカバーをそっと外した。川崎さんは手持ちの紙をそっと折った。しかしついにシャッターは押さなかった。川崎さんもメジャーを出さなかった。確かに夫人の心眼は話しながらも我々の内に届いていたし、信頼を裏切ることも嫌だったが、なによりも撮影や採寸が意味をなさないことに気がついたのである。もともと心に焼き付ける以外、この時空を保存する方法など我々にはなかったのだ。こんな体験をあと何回出来るだろうか。

下地窓の配置、構成、意匠の妙、ゆっくりと寝かした竹の小細工、小舞枠の蛤歯仕上げ、面取りの柱に合わせた細い敷居と薄い襖、躙り口や隅炉に見られる寸法の気配り、雑木の床框、簡単だが真似のしようのない建築のオリジナルと利休の才能が時の彼方より微笑んでいる。「使う人が創った席だから」と言う夫人の言葉は慰めとも受け取れた。

四十分にもわたるタイムトラベルは相対性理論?により、一瞬に終わった。重文の書院に所を移し、改めてその様式の違いに感心する。それにしても初期の書院造りは我々が知る後期のものより洗練されて見えるのはなぜだろう。多分、はるかに自然体なのだ。それに加えてここから待庵の水屋につながる増築部など全く囚われていない。様式に縛られたくはないものである。この席で、夫人に妙喜庵が駅前になってしまったことへの感想を尋ねたら、このあたりには何もなく、駅が無ければ買い物にも行けないのでとても助かっているとのことであった。見たいものしか目に入らない自分を恥じ入るのみである。

仏間に戻り、改めて祭られている観音像に手を合わせたが、その左手に利休像があるのにもついに気がつかなかった。おそらくはここで見るべきものの何分の一も見てはいなかったに違いない。約束の一時間もあっという間に過ぎ、「何遍も通いはったらきっと頭ん中に入りきるんと違います?」という只者ではない夫人の言葉にすべてを要約されて、「また来よう」と思いつつ、充分観せていただいたことに感謝しながら頭がいっぱいの状態で妙喜庵を後にした。

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